ドリームコネクトブログ

夢へと繋げていく。

江別の対雁の榎本牧場について

榎本武揚は、北海道開発で対列強、対ロシアを考えていた。石炭発掘と運搬など。


そのためか、小樽と江別の対雁に土地を買った。

しかし、

 

開拓使

駐露特命全権公使樺太千島交換条約締結

大臣歴任

東京に大学設立

メキシコ殖民


と多忙のため、江別の対雁の牧場経営は優先順位が高くなかった。

経営がうまく行かなかった可能性がある。死後に後継者で長男の武憲が1918(大正7)年に農地を解放し小作人に分解した。榎本牧場解散だと思われる。

元々士族授産のために経営していたふしがあるので、未調査だが小作人は士族ー旧幕臣かその子孫か。


近い時期の1927(昭和2年)に町村敬貴が江別で町村牧場を設立。


榎本牧場が解散し、町村牧場が今に続いているのは、技術や熱意の差だろうか?

関矢孫左衛門について。

関矢孫左衛門は幕末〜明治の越後の名士で、かつ北海道開拓者であった。

 

越後については、今回は他に譲るとして、北海道開拓特に江別市野幌についてまとめた。

 

明治天皇や大橋一蔵の北海道開拓の志に影響された孫左衛門は、1886(明治19)年1月に北越殖民社の創立者の1人となり出資者になった。

 


大橋一蔵は孫左衛門より先発し、江別太(現在の江別市)に拠点を設けて越後村とした。

7月に孫左衛門はここに入り、大いに開拓の可能性を感じた。移住する気もあったが、北魚沼郡長などを辞めるわけにも行かず、新潟に引き上げた。

 


大橋一蔵は、伊達家家臣が拓いた伊達屋敷周辺の伊達屋敷通りも開拓を進めていたが、東京で馬車に轢かれて事故死した。

 


このため、孫左衛門は北魚沼郡長、長岡六十九銀行頭取、明訓校校長の重職を捨て、第二代北越殖民社社長に就任、北海道開拓に尽くすことになった。

 


1889(明治22)年2月に大日本帝国憲法が発布されて、帝国議会の設置が決まり、地域の代表として衆議院議員に当選した。

よって、江別太ー野幌の開拓との二足の草鞋となり北海道と国会を往復する多忙な日々を送った。

 


議会が解散して後、立候補せずに開拓に力を注いだ。

原始林の保存を道庁に押しかけて要求を通した。

また、石狩川の氾濫で大損害を出したりしたが、野幌の開拓に成功した。

 


1913(大正2)年4月、庭園を築き千古園とした。

4年後の1917(大正6)年6月21日死去。行年74歳。

荼毘に付されて遺骨は新潟県魚沼市の関矢家に埋葬された。f:id:kumonokanatani0501:20240105110953p:image

楽しい悩み

◎楽しい悩み

北海道を離れ、京都に住んで20年以上経ちましたが北海道で仕事したい気持ちはあったりします。
しかし、便利屋・運送屋(特に運送屋)という枠ではなかなか京都を離れられなかったり。
今までお世話になってきた方々を見捨てて故郷に帰るわけにもいかず。

北海道、特に札幌圏でオンラインビジネスとかできたら京都に拠点を置いたまま関わることができるなあというところが現実的な気もします。

・オンラインショップは動いていて楽しいけど、特に北海道に特化はできていない
→北海道物産?


など具体的できていません。
情報をお持ちの方、ぜひお願いします。

もし京都から離れたら

地元、北海道と京都の二重生活が夢ですが、もし京都を本拠地にしなかったら?と改めてイメージ。

京都の家は拠点にはしますが、本拠地かどうかは考え中。

・京都を拠点にあちこち出張。
・北海道を拠点に京都に出張。

京都に恩返しできたとも思いませんが、さりとて地元を放置するのもなあ。

 

◎北海道で興味あるところ

・ベタで札幌〜故郷江別市

・小樽(祖父、父の地。)

積丹(先祖の地)

 

◎北海道以外で興味あるところ

・大阪を拠点に?

・沖縄

 

 

楽しい悩みというかイメージ。

ゲームの思い出2〜ゲーム機はあるけれど

ゲーム機はあるけれど

 

うちは偏りがあり、ファミコンスーファミは買ってもらったものの許可制でした。

 

30年前は家庭用ゲーム機がまだ定着しておらず、我々子供達には大人気でしたが、その親世代にはなんだかわからないということもよくありました。

ゲーム…特に電子のゲームはインベーダーあたりから社会に定着したかと思いますが、ハマる人が多かったと社会問題になっていました。

また、ゲームが定着しつつある90年代は、ゲームにはまるとバカになる、勉強しない、目が悪くなる、不健康などで敬遠する親もいました。

 

令和現在では、その子供達が親で、文化として根付いているため、そのようなことは少ないと思います。 (時たま敬遠する人も見かけます)

 

続く。

ゲームの思い出〜子供のころのゲームとの出会い 

子供のころのゲームとの出会い

 

子供のころのゲームとの出会いってありますよね?

人間はだいたい8〜10歳の時代に強く影響を受けたものが、思考の根っこにあると言われています。

つまりこの時期からゲームをやっていて、良い影響を受けると、ゲーム好きになるということです。 悪い影響もありますが、それは置いておいて…

 

けんたろうの場合、この時期が90年代で、ファミコンスーファミが絶頂期の時代でした。

小学生の話題の何割かがこの話で、どの本体を持っていて、なんのソフトを持っているか、何本ソフトを持っているかという話で持ちきりでした。

ネットがなく、コミュニティと繋がりづらい時代でしたので、

 

ガキ大将的な存在

スポーツ

勉強

ファミコン

 

のような格付けがありました。 うちは偏りがあり、ファミコンスーファミは買ってもらったものの許可制でした。

 

続く。

奈良中和の旅

奈良中和を旅してきました。

 

奈良県はいわゆる鹿とか大仏の奈良市は、北東に固まっていて、他のエリアはあまり観光されなかったりします。

しかし、橿原神宮古墳時代飛鳥時代平城京奈良時代
までと日本の政治的中心地だった重要な地だったりします。

ピンポイントで移動してるため、遺跡古墳がゴロゴロしすぎて、涙を飲みました。


今回は古墳時代までが研究フィールドワークのため、飛鳥時代以降はガン無視。

推古天皇聖徳太子関連
天武天皇が作った藤原京
銅鐸生産地の唐古・鍵遺跡


もう一度来なければなりませんね。