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関矢孫左衛門について。

関矢孫左衛門は幕末〜明治の越後の名士で、かつ北海道開拓者であった。

 

越後については、今回は他に譲るとして、北海道開拓特に江別市野幌についてまとめた。

 

明治天皇や大橋一蔵の北海道開拓の志に影響された孫左衛門は、1886(明治19)年1月に北越殖民社の創立者の1人となり出資者になった。

 


大橋一蔵は孫左衛門より先発し、江別太(現在の江別市)に拠点を設けて越後村とした。

7月に孫左衛門はここに入り、大いに開拓の可能性を感じた。移住する気もあったが、北魚沼郡長などを辞めるわけにも行かず、新潟に引き上げた。

 


大橋一蔵は、伊達家家臣が拓いた伊達屋敷周辺の伊達屋敷通りも開拓を進めていたが、東京で馬車に轢かれて事故死した。

 


このため、孫左衛門は北魚沼郡長、長岡六十九銀行頭取、明訓校校長の重職を捨て、第二代北越殖民社社長に就任、北海道開拓に尽くすことになった。

 


1889(明治22)年2月に大日本帝国憲法が発布されて、帝国議会の設置が決まり、地域の代表として衆議院議員に当選した。

よって、江別太ー野幌の開拓との二足の草鞋となり北海道と国会を往復する多忙な日々を送った。

 


議会が解散して後、立候補せずに開拓に力を注いだ。

原始林の保存を道庁に押しかけて要求を通した。

また、石狩川の氾濫で大損害を出したりしたが、野幌の開拓に成功した。

 


1913(大正2)年4月、庭園を築き千古園とした。

4年後の1917(大正6)年6月21日死去。行年74歳。

荼毘に付されて遺骨は新潟県魚沼市の関矢家に埋葬された。f:id:kumonokanatani0501:20240105110953p:image