◎推古天皇について
554〜628
第33代天皇
東洋初の正式な女帝
29代欽明天皇の子
仏教公式伝来 552
任那滅亡 562
父の時の562年に任那が滅亡し朝廷の朝鮮半島の影響力が低下した。
額田部王(ぬかたべ)
→敏達皇后
→推古天皇
日本初、東洋初の正式な女帝(大王。天皇とはまだ呼ばれていない時代)
天照、卑弥呼など女性リーダーは日本はいた。
その後女性が天皇になる流れとなる
「神功皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が天皇に即位したかどうか意見が分かれる)
判断力など、推古天皇自身が優秀との説あり。
蘇我馬子の姪
(というか藤原氏が真似をしたと思われる)
厩戸皇子の叔母
推古天皇が天皇に即位した593年から平城京遷都の710年を飛鳥時代と言う。
◎治世
父の第29代欽明天皇の跡を継いだ第30代敏達天皇の皇后となるが早世、その後の朝廷の混乱を乗り切り、蘇我馬子に「推」されて推古天皇となる。
隋が中華大陸を統一し、朝鮮半島のパワーバランスが変わる中で、仏教など大陸の文化や技術を取り入れた上で日本独自の要素をプラスし、蘇我馬子・厩戸皇子と3者で朝廷を改革した。
父の方針である朝鮮半島への復権、あるいは影響を残すことを目指しつつ、隋と対等の関係を保ち天皇(当時は大王)中心の中央集権国家を目指した。
摂政皇太子である厩戸皇子が推古天皇より早く死亡したため、舒明天皇が跡を継ぎ即位した。
◎「聖徳太子」について
・厩戸皇子
574〜622
第31代用明天皇の子
蘇我一族で仏教推進派。
推古天皇の摂政皇太子
冠位十二階、十七条憲法を制定し朝廷の改革に関わった。
遣隋使として小野妹子を派遣した。
本名?
近親婚的な天才?
・聖徳太子
伝説的に信仰されている人物。
遣隋使の小野妹子から箸を報告され、奨励した。
◎なぜ伝説が生まれたのか?
また蘇我氏宗家が滅亡したあと藤原氏が歴史を改竄、蘇我氏の業績を消した。
そのため相対的に厩戸皇子の評価が上がったため。
(推古朝を主体的に改革したのは推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の3者の誰なのか諸説ある。)
・法隆寺が作った。法隆寺夢殿は厩戸皇子住居跡地だが、子の山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされたため、法隆寺の後ろ盾が無いため。
◎即位前と治世
◯権力争いと仏教
丁未の乱(ていびのらん)
587年
仏教推進か廃仏か。
帝位と貴族の争い
→仏教中心の国家へ。
593年
即位後、厩戸皇子を摂政皇太子に。
(天皇と皇太子がまだないので、現代の皇太子的地位かどうか不明)
推古朝を主体的に改革したのは推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の3者の誰なのか諸説ある。
→乙巳の変〜大化の改新で藤原氏が蘇我氏の業績を消した説やそれによって厩戸皇子が伝説化し聖徳太子となった説あり。
◯対外政策
朝鮮の権益を守りながら隋と対等な関係を。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
・遣隋使
※冊封されない
隋は高句麗遠征を考えていて日本が敵に回ると困る?
当時のヤマト王権は国のシステムが中華風ではない
最初は失敗
→改革
603年 冠位十二階を制定。
位階の基礎。現代も叙位、叙勲、褒章制度として残る。
単なる模倣ではなく、日本独自の要素も。
604年 十七条憲法を作る。日本最初の成文法
遣隋使派遣で失敗したのを機にという説が強い。
仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。
◯後継者
厩戸皇子 皇太子がまだシステムとして確立されていない(そもそもヤマト王権最後の時代で天皇でなく大王)。
※なぜ甥の厩戸皇子を摂政皇太子にした?
子に竹田皇子がいたが早世したらしい。
墓も一緒にして欲しいと推古天皇の遺言
尾張皇子
なぜか記録がなく立太子されず。
◯没後
田村皇子ー舒明天皇が即位
候補者だったが、蘇我入鹿に滅ぼされた。
邸跡地に法隆寺夢殿が建てられる。
陵がなぜか河内にある
子の竹田皇子と合葬
厩戸皇子と合葬?
改葬?
政治の中心地から離れたところに作る?
推古天皇以前からそうか?
◯歴史書
現在に至るまで歴史が不明。
◯天皇の称号
大宝律令あたりから
◯蘇我氏
渡来人ではないとの学説
女系は藤原氏へ
8世紀末には公卿を出せなくなり
9世紀末には貴族ですら無くなった。
蘇我ー石川ー宗岡
一応明治以降まで存続
◯朝鮮半島進出
古墳
ヒスイを輸出
日本人が朝鮮半島に進出していた。
侵略?支配?
第10代崇神天皇
258?
晋 司馬昭
・任那について
強大な指導権はない
(時には独自で動く)国司?
外交使節団?
中国など
日本が侵略し支配と歴史的認識