https://www.instagram.com/p/C514oACSjU5/?igsh=dGJ0OGg3YTdsbWR0
無用の用を思い出しました。
ドリームショップ #メルカリShops
https://mercari-shops.com/shops/CXawTJ5uRQ5DN2QWoneHaA?source=shared_link&utm_source=shared_link
ネットリサイクルショップをしていて、ゲームや本などを販売しています。
ヤフオクもしています。
昔、実家の近所に古本屋がありまして。
僕が中学生くらいで、30年くらい前でしたでしょうか。
古書店+ゲームの売買の店だったのでしょう。
当時ブックオフが中古ゲームを売買していたので、古い古書店も真似をし始めたと思います。
ただ、経営や店主は古いスタイルのままだったと思われ、 僕がゲーム売る時に小難しい顔をした親父が、ペンでカンカンたたいて横柄に値段を言われました。
まだ見積もりだったので腹が立ち、結局そこには売りませんでした。
だいたいブックオフのような新古書店でない、古い古書店、古道具屋などの古物商や歴史関係者はこんな感じではないでしょうか。
ほこりをはらう、ハタハタを持っていて、気難しく、嫌らしく咳払いをしたり、長時間の立ち読みはお断りだよ、みたいなイメージ。
腹が立っていましたが、やっぱり羨ましかった気がします。
素敵な本を売っているのに、なぜ愛想が悪いのか。
「財産」をなぜぞんざいに扱うのか。
このあたりで引っかかっていたんでしょう。
まあそんな感じで、古物商になりリサイクルショップと本、ゲームをネットで売るようになって1年以上経ちました。
これと別枠で、僕は歴史好きなわけですが、歴史で稼ぎたいと中学生から思っていました。
歴史に特化した店は作って見たかったですね。
今のところ、1つのコーナーではありますがこの話で、歴史の本を売ることで一応2つの夢が叶ったことになります。
件の親父ほど稼いでるわけでもなく、無店舗ですが。
高島市の歴史
(ピックアップ)
◯継体天皇が生まれる。
天皇乗っ取り説がある
◯日本一微妙な大名
その1
https://www.instagram.com/p/CBPoA35AfQx/?igsh=MXc5c3gzZWcwNHp2Zg==
その2
https://www.instagram.com/p/CBPrLVxg9tu/?igsh=OHNpaWZ5djA0ODRj
その3
https://www.instagram.com/p/CBQACfCAXGK/?igsh=MWQ5OWxjeW0ydXlrbw==
その4
https://www.instagram.com/p/CBQDrf0AE1f/?igsh=aHkxY2x6bGJ3a2t6
その5
https://www.instagram.com/p/CBQHj3dAWDN/?igsh=aHAyc2NsN2wwbWE1
◯1578年信長の甥 織田(津田)信澄が大溝城主に
(縄張りは舅の明智光秀)
比叡山で荒れた領地を復興。
https://www.instagram.com/p/C36wrXorBmU/?igsh=MWFhZ3VvdGpmMHAyMQ==
◯1582年
信長の三男信孝を大将に四国征伐軍の編成中に本能寺の変が起こる。
信澄は光秀の婿だったため、謀叛共謀を疑われて攻め滅ぼされた(事実不明)。
大溝城は解体され廃城
◯高島屋
1831年飯田新七が義父の出身地の地名から取った屋号を高島屋とし、現在の京都支店あたりで始める。始めは米穀商ついで古着商。
◎推古天皇について
554〜628
第33代天皇
東洋初の正式な女帝
29代欽明天皇の子
仏教公式伝来 552
任那滅亡 562
父の時の562年に任那が滅亡し朝廷の朝鮮半島の影響力が低下した。
額田部王(ぬかたべ)
→敏達皇后
→推古天皇
日本初、東洋初の正式な女帝(大王。天皇とはまだ呼ばれていない時代)
天照、卑弥呼など女性リーダーは日本はいた。
その後女性が天皇になる流れとなる
「神功皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が天皇に即位したかどうか意見が分かれる)
判断力など、推古天皇自身が優秀との説あり。
蘇我馬子の姪
(というか藤原氏が真似をしたと思われる)
厩戸皇子の叔母
推古天皇が天皇に即位した593年から平城京遷都の710年を飛鳥時代と言う。
◎治世
父の第29代欽明天皇の跡を継いだ第30代敏達天皇の皇后となるが早世、その後の朝廷の混乱を乗り切り、蘇我馬子に「推」されて推古天皇となる。
隋が中華大陸を統一し、朝鮮半島のパワーバランスが変わる中で、仏教など大陸の文化や技術を取り入れた上で日本独自の要素をプラスし、蘇我馬子・厩戸皇子と3者で朝廷を改革した。
父の方針である朝鮮半島への復権、あるいは影響を残すことを目指しつつ、隋と対等の関係を保ち天皇(当時は大王)中心の中央集権国家を目指した。
摂政皇太子である厩戸皇子が推古天皇より早く死亡したため、舒明天皇が跡を継ぎ即位した。
◎「聖徳太子」について
・厩戸皇子
574〜622
第31代用明天皇の子
蘇我一族で仏教推進派。
推古天皇の摂政皇太子
冠位十二階、十七条憲法を制定し朝廷の改革に関わった。
遣隋使として小野妹子を派遣した。
本名?
近親婚的な天才?
・聖徳太子
伝説的に信仰されている人物。
遣隋使の小野妹子から箸を報告され、奨励した。
◎なぜ伝説が生まれたのか?
また蘇我氏宗家が滅亡したあと藤原氏が歴史を改竄、蘇我氏の業績を消した。
そのため相対的に厩戸皇子の評価が上がったため。
(推古朝を主体的に改革したのは推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の3者の誰なのか諸説ある。)
・法隆寺が作った。法隆寺夢殿は厩戸皇子住居跡地だが、子の山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされたため、法隆寺の後ろ盾が無いため。
◎即位前と治世
◯権力争いと仏教
丁未の乱(ていびのらん)
587年
仏教推進か廃仏か。
帝位と貴族の争い
→仏教中心の国家へ。
593年
即位後、厩戸皇子を摂政皇太子に。
(天皇と皇太子がまだないので、現代の皇太子的地位かどうか不明)
推古朝を主体的に改革したのは推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の3者の誰なのか諸説ある。
→乙巳の変〜大化の改新で藤原氏が蘇我氏の業績を消した説やそれによって厩戸皇子が伝説化し聖徳太子となった説あり。
◯対外政策
朝鮮の権益を守りながら隋と対等な関係を。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
・遣隋使
※冊封されない
隋は高句麗遠征を考えていて日本が敵に回ると困る?
当時のヤマト王権は国のシステムが中華風ではない
最初は失敗
→改革
603年 冠位十二階を制定。
位階の基礎。現代も叙位、叙勲、褒章制度として残る。
単なる模倣ではなく、日本独自の要素も。
604年 十七条憲法を作る。日本最初の成文法
遣隋使派遣で失敗したのを機にという説が強い。
仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。
◯後継者
厩戸皇子 皇太子がまだシステムとして確立されていない(そもそもヤマト王権最後の時代で天皇でなく大王)。
※なぜ甥の厩戸皇子を摂政皇太子にした?
子に竹田皇子がいたが早世したらしい。
墓も一緒にして欲しいと推古天皇の遺言
尾張皇子
なぜか記録がなく立太子されず。
◯没後
田村皇子ー舒明天皇が即位
候補者だったが、蘇我入鹿に滅ぼされた。
邸跡地に法隆寺夢殿が建てられる。
陵がなぜか河内にある
子の竹田皇子と合葬
厩戸皇子と合葬?
改葬?
政治の中心地から離れたところに作る?
推古天皇以前からそうか?
◯歴史書
現在に至るまで歴史が不明。
◯天皇の称号
大宝律令あたりから
◯蘇我氏
渡来人ではないとの学説
女系は藤原氏へ
8世紀末には公卿を出せなくなり
9世紀末には貴族ですら無くなった。
蘇我ー石川ー宗岡
一応明治以降まで存続
◯朝鮮半島進出
古墳
ヒスイを輸出
日本人が朝鮮半島に進出していた。
侵略?支配?
第10代崇神天皇
258?
晋 司馬昭
・任那について
強大な指導権はない
(時には独自で動く)国司?
外交使節団?
中国など
日本が侵略し支配と歴史的認識
関西小樽会
https://kansai-otarukai.com/2024/02/14/32729/
に連載されることになりました。
同じものをブログにも載せておきます。
画像
小樽総合デザイン事務局さま
この度小樽の歴史について書かせていただくことになりました。
僕は江別市出身ですが、祖父の代から小樽在住で父は小樽出身です。
親戚も小樽に住んでいます。
そのため、子供の頃からしょっちゅう小樽に行っていました。
大学では歴史学を学びましたが、北海道の歴史には当時は興味はありませんでした。
近年になってから、故郷について知らないのはどうかと思い調べています。
本格的に研究するためには学者や博物館の先生から学んだり、小樽市史などの資料を読むべきですが、
現在のところでは未だそこまで至ってはいないので、差し当たり小樽と関連地域歴史コラムということになります。
楽しんでいただければ幸いです。
また、ご意見や情報、訂正も頂ければ嬉しく思います。
お問い合わせ
officedreamconnect@gmail.com
ブログ
https://kumonokanatani0501.hatenablog.com
インスタグラム
https://www.instagram.com/kentaro.rekishi
https://www.instagram.com/p/C3NM5RJr3YF/?igsh=aHozMmIwMHd0b3Uy
法隆寺の駐車場の植え込みらしきもの
https://www.instagram.com/p/C3NOxPTLKcl/?igsh=ZTMycDV0Mm10MDc2
法隆寺夢殿
https://www.instagram.com/p/C3NP2lELBJ1/?igsh=bm15ZDNnbGZwajJ4
筒井城と筒井順慶
https://www.instagram.com/p/C3UHkn-L6Fl/?igsh=Y3ZydmtuYzhndWl1
大和郡山城その1
https://www.instagram.com/p/C3UJi7vLjqT/?igsh=MTNsOG45ZjludGp0ag==
大和郡山城その2
https://www.instagram.com/p/C3UK1ilrioN/?igsh=MW16MXc4YmNsODZqYg==
大和郡山城その3
お待たせしました、お待たせしすぎたかもしれません(村西とおる風)。
◯大和郡山城のインスタとレポート
筒井城の筒井順慶が、
明智光秀の手を借りて
築城したあたりから大和郡山城は始まります。
手を借りといて洞ケ峠をかますあたりが
筒井順慶っぽいのですが、調べると結局光秀が信用できなかったのかもしれませんね。つまり光秀にも裏切られる原因があるのでしょう。
https://tsutsuidouzoku.amebaownd.com
筒井氏同族研究会では資料を提示して、最初から秀吉に内通していて、光秀の味方ではありませんという新説を出していますが、
個人的にはやっぱり日和見で、秀吉にも光秀にもいい顔をしていたような気もします。
証拠として、筒井順慶は秀吉側に遅参し山崎の戦いに参陣していません。
秀吉に怒られたようです。
(ほとんど同じことをした細川家は秀吉に重用されます。切ない…)
以前書きましたが、勝海舟も
あいつは筒井順慶だよ
などと日記に書いており、
筒井順慶=日和見の代名詞
というのは武士の常識だったと思われます。
弱小大名の必死生き残り策なので責めるに責められなかったり。
◯大和戦国時代と文化財の話。
大和は平野で守るのが大変だったようです。平野だから神武天皇〜桓武天皇まで都だったと思いますが。
筒井順慶と松永久秀の大和争奪戦の中、筒井側が東大寺に陣を張り、松永側が火をつけ東大寺と大仏が焼け落ちました。
法隆寺は気にしていたのか、信長が大和を支配するようになって信長から
法隆寺に陣を張るな
(=法隆寺に近寄るな、盗むな、傷めるな、火をつけるな。)
という禁令を出させています。
法隆寺と似たような、大阪の金剛組@厩戸皇子が建てた四天王寺は信長がきっちり火をつけて寺領を没収しています。
法隆寺はうまく信長に取り入ったようです。
戦国時代なので文化財保護もへったくれもありませんが、とにかく法隆寺は戦火から守られました。
河井継之助記念館
嘆願書の意訳
新政府軍に提出した嘆願書と意訳が記念館にあります。
見てきましたが、それを文字起こししてノートにしました。
嘆願書と意訳はネットにはあまりありません。
河井継之助(差出人は藩主の牧野駿河守忠訓)の赤心が読み取れます。
このような人物を国士と言うのでしょう。
この春、朝廷から徳川家を追討するご命令がありましたが、私どもいままで臣下の一人として仕えた者としては、恩を忘れて主君に鉾を向けることなど決してできるものではありません。
現在の諸国の大名の態度を見ておりますと、日本国が従来持って人の道を守る心は、捨て去られたように思います。
私は領内の十余万人が、職業に精励して経済が豊かになり、安心して生活できるようにすることが天職だと思っています。
それぞれの藩が、そのように考えることがひいては国全体の平和と繁栄につながることでしょう。
そんなことも分からない人たちが戦争をしかけてくるのであれば、義理を守り力を尽くして戦い、滅亡しても仕方ないことだと覚悟しています。
しかしながら強い方につこうと日和見の態度を取って、戦いに巻き込まれて領民を苦しめ、藩も滅亡し汚名だけ残すこととなればもっとも申し訳ないことだと思っております。
私どものような小藩でも一致して倹約につとめ、産業を興せば、三年のうちには海軍を備えることもできましょう。
それなのにこのような情勢となって、いたずらに戦争によって領民を苦しめ、農作業を妨げ、国を疲弊させてしまうのは、本当に悲しむべきことです。
このことはすでに、朝廷にも、徳川氏にもご意見申し上げたのですが、どちらからも回答はありませんでした。
そこで、私はやむを得ず、ただただ領民の平和を維持することに専念しているのであります。
このようなことを、私どもは決して一藩のためだけに申し上げているのではありません。
いまこそ、日本国中で協力し、世界の恥さらしにならないような強国をつくり上げることが大切です。
情勢は切迫していますから、この真の心をぜひご採用になっていただければありがたく思います。
慶応四年五月
牧野駿河守