文章を書くことに憧れがあった。
いつからか忘れたが、
こんな庵で文章に戯れながら死ねたら幸せだと思っていた。
兼好法師の生き方にも憧れがあった。
遁世して、出世や権利から離れながらも社会とは関わり続けるし歌会にも出席する。出家して隠者ではあるが、世捨て人とは少し違う、そんな生き方は素敵だなと。
職業作家とも少し違う。
カンヅメになりたいわけではない。
締め切りに追われたいわけでもない。
Facebookやこのブログに投稿することはあった。
しかし結局今まで、
文章を発信することの恐怖が憧れより優っていた。
自分は、自分の発信するものは世に受け入れられるのだろうか?
ずっと問い続けていたが、答えはなかった。
最近毎日文章を書いているが、これは
心境に変化があったから。
どう変わったかというと、
誰かに受け入れられるかどうかは問題ではない。
自分の文章、発信するものが自分で受け入れられるかどうか、つまり自分が満足するかどうか、充実感が得られるかどうか、自分らしくいられるかどうかが一番大切だ。
と気がついた。
自分で自分を受け入れることができれば、地球全てが敵に回ることはないだろう。
誰かは必ず共感共鳴してくれると確信できた。
アクセス数は一つの記事あたりまだ100にも満たないが、共感共鳴してくれる方は思ったよりもいることがわかった。
日常の生活は特に変わっていない。
文章を書くことが増えたこと以外は。
近年まれに見る充実感がある。
世に人に受け入れられないという、恐怖を乗り越え文章を書いている。
文章というか歴史情報発信で飯が食えたら…というイメージもしてみる。
本当の自分はなんなのか?
司馬遼太郎「おれは権現」という短編集に「言い触らし団右衛門」という作品がある。
この中に
男というものは己の価値を世に問う生き物である
という一文がある。
文章を使って情報発信、自己表現をして、自分の価値を世に問うことをしてみよう。